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 うつくしい人であった。それだけは鮮烈に覚えている。
 
 両親に連れられ行った博覧会には、大昔にこの地を駆けずり回っていたという大蜥蜴の骨だの、煌びやかすぎて眼に痛い色のついた貴石だの子どもの目に映るには魅力的すぎる品々が詰め込まれていた。
 幼い自分はしっかりとその魔力に捕らわれ、知人と世間話に花を咲かせ始めた両親の手を離して一人ふらふらと会場の奥へと歩き始めていた。
 気がつけば、戻ろうにも戻り方の分からない見知らぬ空間へと紛れ込んでいた。辺りを見回しても、他人すらいない。その部屋に置かれていた硝子の箱の中にはそっけない丸薬や乾いた木の根などが無造作に飾られており、子どもどころか大人の興味すら引いていない様だった。
 そこで唐突に危機感を感じ、か細い声で父と母を呼んでも答える声はない。ほんの少し声を大きくしてみても、がらんとした室内に自分の声だけが陰々と響き渡り、却って恐怖を煽る結果となってしまった。
 じくじくと染み出でる孤独という名の恐怖から逃れようと、闇雲に歩いた記憶がある。しかし展示の内容はあまり変わる事はなく、気づけば先ほどと同じ丸薬と木の根の入った箱の前に到着し直していた。
 完全に迷ってしまった事実に愕然と気づいてから、猛烈に寂しさがこみ上げてきた。寂しさは爪先から徐々に力を奪い、その場に座り込んでしまっていた。膝を抱え、硝子の箱に凭れ、一つしゃくり上げたのをきっかけに涙がとめどなく溢れてきて、もうどうしようもない。誰の目もないのがまた助けになって、そのまま延々と咽び泣いた薄ら寂しい記憶だけが霞を漂う霧の様に心の中空を覆っている。
 
 どの位、そのまま泣いていただろう。
 す、と自分の頭に触れた何かに、泣き声が喉の奥で凝って止まった。伏せていた顔を恐る恐る上げると、そこには知らぬ顔があった。
 猫のように柔らかで不思議な色をした髪。それを覆う頭巾。照明の下でも白々と透けるようなきめ細やかな肌。尖った両の耳に光る耳飾の赤が目を射る。目元と鼻筋に見た事もない文様が紅で描かれていた。まるでこの世のものではないかのように整った顔立ちはどこか狐を思わせる。どこか艶めいたその容貌を、惚けた様に眺めていた。
「どうしました、小田島様」
男は確かにそう言った。何故、自分の名前を知っているのだろう。そんな疑問を投げる前に、堰を切った様に言葉が溢れていた。両親とはぐれてしまった。迷ってしまった。帰れない。帰りたい。とりとめもなく自分の境遇を訴えていたように思う。
 しかし眼前の男は、子どもの泣き声交じりの訴えをどのような顔をして聞いていたのか――覚えていないのが口惜しい。困ったように笑んでいたのか。口角を緩く上げた微笑を湛えていたのか。ただ、その間ずっと頭を撫でてくれていた白い手の華奢な感触が今でも忠実に思い出せる。
「――分かりました。私が、何とか致しましょう……。ほら、そんなに泣いていては、良い男が台無しです、よ――」
男はそう言って、傍らの大きな箱の引き出しを開けた。その時初めて、男が博覧会という場所にそぐわない大きな木箱を傍らに置いている事に気がついた。開いた眼のような金色の装飾はどこか異質な気配もしたが、不思議と恐ろしくはなかった様に感じている。
 男は引き出しを開けて中をまさぐり、いろいろなものを取り出した。梟を模った水差し、亀の玩具のような道具、紙束、何かを擂り潰した物、繊細な模様のついた小皿、などなど。場所も構わずさんざん散らかしてから、男がようやく見つけ出したのは数粒の飴玉だった。まるで両親とはぐれる前に見た貴石の様に色鮮やかで、石と違うのはほのかに甘い砂糖の香りがする事だった。男は手を取り、自分の手を傾けて透明な紙に包まれた飴玉をころころと移した。不思議な事に、自分の掌に映った飴玉は男の掌に乗っていた時より精彩を欠いている気がした。それでも飴玉の魅力に抗う事など出来ず、一つを剥いて口の中に入れた。今まで食べたどんな菓子より、夢のように甘やかで砂糖ではない良い香りが内から鼻腔を擽った。
 飴玉を味わっている間に男は床に散らかる様々な品を全て箱に収め直した。それからすっと立ち上がり、重そうな箱をひょいと背負った。男は色鮮やかな着物を纏っていた。極彩色が踊る布地を見上げ、蝶のようだと感じた事を覚えている。
「さあ――行きましょうか」
そう差し出される指輪の嵌った手を見て、自分が迷子であるという状態を忘れていた事に気がついた。それに戸惑う暇もなく、慌てて立ち上がった。飴玉をポケットにしまい、ついでに衣服の裾で拭ってからその手を男の手に絡めた。おずおずと握ってみれば、緩やかに握り返された。その反応が無性に嬉しく、飴玉で片頬を膨らませたまま笑った。それを見て男が何事か言った気がするが、覚えていない。今思えば、『泣いた鴉がもう笑った』だろうか。しかし、記号的な響きしか持たない慣用句が男の舌に乗り男の声で奏でられた時、それはどのように変容したのか。それだけが心残りだ。

 それからは、まるで魔法のようだった。行けども行けども抜け出せなかった硝子箱の迷路は、男に手を引かれて進めば幻のように消え去った。その内に遠く人の声が聞こえ始め、それはやがて男と自分とを覆い尽くした。男と一緒に歩く間、首をもたげる好奇心の命じるままにあれこれ尋ねた覚えがある。他愛もない問い掛けと他愛のない答えの中で、一つ妙に色を放つ言葉がある。
 何をしている人なの、と尋ねた。
 男は答えた。
「ただの……薬売り、ですよ」
薬売り、と聞いていつも家に来る置き薬の老人を思い浮かべた。うちにも来る?と尋ねたが、どうでしょうかね、と返された。

 耳が自分の名を呼ぶ両親の声を捕らえ、目が両親の衣服の裾を見つけた時、薬売りは足を止めた。あそこ、と先を指差すと、黙って頷いた。
「……では、私はこれで」
急な事に、反射的に強く手を握った。硬い指輪が子どもの体温で温かった。何故ここで別れなければならないのかが分からず、ただ首を振っていた。
「――我侭を言っちゃあ、いけません。……ちょいと、訳があるんです。ほら、そこに御父上も御母上もおられるでしょう。ここからは、一人で」
それでも嫌だと駄々を捏ねた。チンドン屋の様な奇抜な身なりの男と、田舎者とはいえ士族の子。そんな奇妙な取り合わせだったのに、誰も咎めはしなかった。そう言えば、すれ違っても誰一人として振り返りもしなかった、気がする。
 いつまでも聞き分けない自分に、薬売りは軽く息をついた。それからひょいと身体をかがめ、目線を合わせて微笑する。
「申し訳ありませんねぇ……小田島様の頼みとあらば、是非とも聞いてあげたいのですが。――これで、許しちゃもらえませんか、ね……?」
そう言って取り出したのは、薬売りの纏う着物のように色鮮やかな紙風船だった。固く手を繋がれ右手を封じされていたが、器用に左手だけで持ち、ふうっと息を吹きかけ膨らませた。空気の入り具合を確かめるように片手でぽん、と一度投げ、受けてから、それを差し出した。
 玩具に釣られたのか、子ども心に自分の願いは聞き入れられないと悟ったのか。どちらだったのかは覚えていないが、両手で紙風船を受け取った。
「ああ、いい子だ……何と聞き分けの良い」
紙風船を眺めていたら、何故かからかうように言われてむっとした。少しだけ腹を立てて、礼もそこそこに両親のいる方へと歩き出した。たとえ背を向けても、彼の男はそこにいる。そんな妙な自信があった。
 しかし、両親と再会し母に抱き締められ父に苦言を言われてから、来た道を振り返ってもそこには誰もいなかった。あの艶やかな姿、見失う事などないと思ったのに。
 慌てて両親に薬売りの事を告げても、そんなチンドン屋のような薬売りが今時いるものかと一笑に付された。しかし息子を連れてきてくれた礼はしたいとしばらくその場をさ迷ってみたものの、あの鮮やかな着物を見つける事は出来なかった。
 両親に今度こそしっかり手を引かれながら、まともに礼をしなかった事を後悔した。だから懸命に探したのに、薬売りは見つからなかった。まるで夢でも見ていたような心持だったが、大事に抱えた紙風船とポケットの中の飴玉は、確かにそこにあったのだ。
 
 
 今でも、その紙風船は小田島の私室にある。あの博覧会の展示物のように硝子の箱に納められたそれは、年月を経ても色褪せないままだった。飴玉はあの後全て食べてしまったが、その味は今でも味覚に刻み込まれている。
 博覧会ゆかりの物を見かけたり、思い出す度に、小田島は彼の男の思い出に浸る。そんな時は紙風船を取り出して慎重に弄ぶ。
 
 ああ、初恋とはこのような事を言うのかも知れない。そんな柄にもない事を思いながら、紙風船をぽん、と宙に放るのだ。


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